2009年06月16日

電子レンジは使い勝手の良い調理機器であるが

電子レンジは使い勝手の良い調理機器であるが、大量の電力を消費することやその性質などから、誤った使い方による事故もあり、またその独特な加熱方法にもよって他の機器には見られない問題点も存在する。

設置に際しては、一般に利用し易いよう、また加熱調理中の食品の状態が目で確認し易いよう、目の高さかやや低い位置に置かれる傾向がある。一般の家電製品の中でも突出して電力を消費するものであるため、他の家電製品では無視されがちな部分にも注意が必要である。

1kW程度の電力を消費するので、電源系統の過負荷には注意する必要がある。電源も蛸足配線のような高電気抵抗配線やトラッキング火災を誘発させかねない状態は避けたほうがよい。
調理の際に水濡れなども起こりうるほか、高電圧を利用するため、漏電に伴う感電防止の観点からアースを取ることを、メーカーなどでも推奨している(無くても動くが正しい利用方法とは呼べない)。
かなり重く比較的高い位置に設置して使う機器なので、震災時に動いて思わぬ事故にならないよう耐震補強しておくとよい。

利用できる食器・できない食器 [編集]
基本的に利用できる食器は、陶器・磁器(いわゆる「せともの」)のうち金箔・銀箔などを使っていないもの(色彩・装飾された皿は注意が必要である)か、MICROWAVABLEの刻印があるなど電子レンジ用であることが明記された耐熱ガラス器などである。合成樹脂容器の中にも電子レンジ対応のものが見られるが、こちらは内容物(油を含む食品など)によっては融けたり溶けたり(融解・溶解)する場合もあり、過度に熱しないよう注意が必要である。所定の利用方法が説明書などに示されている電子レンジ対応プラスチック容器は、それに従うようにする。

電子レンジはマイクロ波を使うため、金属箔(アルミ箔など)、金属粉を使った(装飾の金線・銀線など)陶器、沈金を施した漆器などは、火花を生じるので使用できない。漆器自体も塗装面が傷むので避けたほうがよい。
耐熱性の無いプラスチック容器を用いると、高温により変形することもある。特に油物を入れた発泡スチロール製のトレーでは溶解する場合がある。また、容器の材質によっては高温により可塑剤などの人体に有害な成分が食品に溶出する恐れもあるので、極力電子レンジ用の容器に移し替えて調理することが望ましい。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
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マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

食品用ラップフィルムでも成分が溶出する製品も存在するので、電子レンジに利用するものは慎重に選ぶことが望ましい。また耐熱性の面から、ほとんどの製品には「油分の強い食品を直接包んで電子レンジに入れないでください」という注意書きがある。耐熱限度を超えたラップフィルムは溶融して食品に付着してしまう場合もある。
耐熱ガラス容器と混同され易い強化ガラス容器は、これに入れられた料理の加熱後にステンレス流し台の上に置くと、容器の底面接触部分だけが急速冷却された形になり、粉々に破砕することもある。2000年代に肉じゃがを加熱したガラス器がひとりでに粉砕したとしてニュースで取り上げられた。

2009年05月30日

倭国大乱

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末葉に倭国で起こったとされる争乱である。中国の複数の史書に記述が見られる。列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。

倭国には代々男子王がいたが、倭国は争乱状態となった。争乱は何年も続いたが、最終的に邪馬台国の卑弥呼を倭国王とすることで争乱は収まった。以上の内容が、中国の正史である『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝)に記述されている。
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『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝):「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
その国(倭国)は元々、男子を王としていたが70?80年ほどで終わった。倭国は乱れ、何年も互いに攻め合うに及んで一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わし、既に年長で、夫は無かった。
『後漢書』卷85 東夷列傳第75:「桓 靈? 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年?189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した。
『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭:「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王 彌呼無夫壻 挾鬼道 能惑衆」
後漢の霊帝の光和年間(178年?184年)倭国は乱れ何年も攻め合うに及んで、卑弥呼という一人の女子を共立して王とした。卑弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。
『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國:「桓靈之間其國大亂 遞相攻伐歴年無主 有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王」
桓帝・霊帝の間はその国(倭国)が大いに乱れ、互い順番に攻め合い、何年も王がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて国人は王に共立した。
『北史』卷94 列傳第82 倭國:「靈帝光和中 其國亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 國人共立為王 無夫」
霊帝の光和年間、その国(倭国)は乱れ互いが順番に攻め合い何年も王がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、国人は王に共立した。夫は無かった。
五書とも内乱の時期を2世紀後半としている。

2009年04月27日

規制が議論されている兵器

N (Nuclear) - 核兵器
A(Atomic)兵器とも呼ばれる。原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾など。
包括的核実験禁止条約 (CTBT) は爆発を伴う核実験を禁止する条約である。但し現在のところ未だ発効していない。臨界前核実験はこの条約によっても禁止されないと考えられているが、核開発を推進するものだとして非難する意見もある。
核拡散防止条約 (NPT) は核兵器の連鎖的な拡散を防ぐために考案された条約である。1970年に発効し、1995年にその効力を無条件・無期限に延長することが決定された。
核兵器禁止条約 (NWC) は核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶等、核兵器の全廃と根絶を目的として起草された国際条約案である。2007年、 コスタリカ・ マレーシア両政府の共同提案として正式に国連総会に提出されたが、2008年5月現在未採択である。
B (biological) - 生物兵器
細菌兵器(細菌、ウイルス、それらを媒介する宿主生物を含む)など
これはジュネーヴ議定書にて使用が禁じられている。
生物兵器禁止条約 (BWC) は開発・生産・貯蔵について禁じる条約である。
C (chemical) - 化学兵器
毒ガス、枯れ葉剤等の薬物、薬品、毒物など
これはハーグ陸戦条約とジュネーヴ議定書にて使用が禁じられている。
化学兵器禁止条約 (CWC) は開発・生産・貯蔵・使用について禁じる条約である。
以上をまとめて、NBC兵器もしくはABC兵器と呼ぶ。

R (radiological) - 放射能兵器
核兵器が核分裂による爆発の衝撃波と熱線、放射線による直接的な破壊や殺傷を主な目的としているのに対して、核反応の有無に関係なく爆発によって間接的に放射性物質を散布することによって、直接的な殺傷や破壊よりも放射能汚染や社会的混乱などを引き起こすことを主な目的とした兵器のこと。俗に汚い爆弾(DIRTY BOMB)と呼ばれる。
核テロ防止条約は核テロ行為防止と容疑者の取扱い・犯罪人引渡しなどを規定する条約である。
核物質防護条約は核物質の不法な取得と使用を防止し、核物質及び原子力施設を妨害破壊行為から防護し、容疑者の引渡しを規定し、これらの犯罪を政治犯罪とみなしてはならないことを定めた条約である。

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以上をまとめて、NBCR兵器もしくはABCR兵器と呼び、大量破壊兵器という場合、通常はこれをさす。なおCBRN(シーバーン)兵器と称することもある。

その他の兵器
対人地雷
対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約(対人地雷全面禁止条約)(1999年3月発効)
除去の困難性や民間人への被害による。除去困難性に対する補足だが、費用が嵩むが一定期間経過すると爆発しなくなる地雷がある。
火炎放射器
特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)議定書IIIにおいて制限されている。
目潰し用レーザー兵器
Blinding Laser Weapon (BLWs) と呼ばれる兵器は、人の目に向けてレーザーを照射し、その出力によって網膜に損傷を与えて視力を奪うタイプの兵器である。(→光線銃)
1990年前後からアメリカなどが実用的な実験を行っているが、可視領域外の波長を用いることができること、一瞬でも目に飛び込むと効果を及ぼすこと、使用が著しく容易でかつ継続的に作動させ続けることができること、網膜に及ぼした損傷が多くの場合不可逆的で永久的に失明する恐れがあること、などから非人道的兵器と見なされた。
1995年10月、特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)議定書IVが採択され、失明をもたらすレーザー兵器の使用・移譲禁止が規定された。
1996年のジュネーブ協定において、実戦配備されない段階にもかかわらず、視力を奪うために用いられるレーザー兵器の使用は禁止された。この迅速な決定の背景には、テロリストの手に渡るほど量産・普及してからの規制では手遅れであるとの各国の一致した判断があったという見方がある。
しかし2002年7月にNew Scientist誌に掲載された報告をきっかけに、戦闘機の空対空兵器として搭載が検討されているレーザー兵器についても、地上の民間人に対し偶発的に同様の効果を及ぼす恐れがあるとして、反対運動が起こっている。
クラスター爆弾も不発弾化したものが地雷と同様の被害を与えるという理由から人道上の問題を指摘する意見がある。(→不発弾)
特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)でクラスター爆弾について検討中(2006年)。
これとは別に2008年の条約制定を目指したオスロ宣言がある(2007年)。
燃料気化爆弾は急激な気圧の変化による内臓破裂などを起こさせ、無差別かつ不必要な殺傷を引き起こすため、禁止するべきとの意見がある。
ダムダム弾は、命中した際4つに分裂し、人体内部に大きな損傷を与える。そのため、残酷な被害を与えるとして1907年にハーグ陸戦条約にて戦争での使用が禁止された。
劣化ウラン弾は、分類上、核兵器でも放射能兵器でもないとされており、すなわち大量破壊兵器ではない。しかし人間は吸い込む事により、重金属中毒を起こす事と、内部被曝による放射能被害が出るのではないかと言われている事から使用を制限すべきだという意見がある。
衛星攻撃兵器は、スペースデブリが大量に発生する懸念や、宇宙条約での平和利用を求める考えから、禁止すべきとの意見がある。

2009年04月11日

ドリア旋法

ドリア旋法(-せんぽう)とは、音楽における旋法の名前であるが、これは2種類の意味をあらわしうるので注意が必要である。

教会旋法のドリア旋法
古代ギリシャのドリア旋法
後者(ギリシャ)がドリア旋法の本来の意味だが、今日では単にドリア旋法といえば前者(教会旋法)のことを示す。

古代ギリシャのドリア旋法 [編集]
ドリア旋法は、ギリシャのドーリア人にちなんで名づけられている。ギリシャの音楽理論では、ドリア旋法の音階は二つのドリアテトラコルド(=半音、全音、全音)から作られると説明される。これは現代の音名でいうところの

[ E F G A ][ B C D E ]
で近似することができる。これを

A [ B C D E ][ (E) F G A ]
と並べ替えるとヒポドリア旋法と呼ばれる。また、

[ B C D E ][ (E) F G A ] B
と並べ替えるとハイパードリア旋法(?)と呼ばれ、これはミクソリディア旋法と一致する。

古代ギリシャのドリア旋法は、教会旋法のフリギア旋法と一致する。

教会旋法のドリア旋法 [編集]
初期のキリスト教教会は、古代ギリシャの旋法にちなんで8つの旋法(w:Octoechos)を定めた。しかし、ボエティウスのラテン語文献の誤訳が原因となって、教会旋法では古代ギリシャの旋法とは異なる名前が割り振られてしまった。このため、教会旋法におけるドリア旋法は古代ギリシャとは異なり、

D E F G A B C D
という音階に基づく旋法のことを指すようになった。これは、長音階を「レ」から並び替えた音階に相当する。また、短音階と比較すると、第6音(ニ短調の短音階でいえば"D E F G A Bb C"のBb)を半音上げるとドリア旋法になることから、ドリア旋法を特徴付けるこの第6音をドリアの6(ドリアの六度)と呼ぶ。

ドリア旋法は対称的な構成をしており、全音と半音の並び方が全-半-全-全-全-半-全となっている。

教会旋法のドリア旋法は、古代ギリシャのフリギア旋法と一致する。

ドリア旋法による有名な曲 [編集]
イングランド民謡や宗教音楽に多い。
グリーンスリーブス
スカボロー・フェア

チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

2009年03月27日

海外製品の輸入

日本においては性器およびその周辺まで精巧に作ると猥褻物として法令等の規制を受けるため、日本製のラブドールではオナホールをセットする穴を開けるに留められているが、海外のラブドールは女性器まで精巧に再現されているため、そのままでは猥褻物となり輸入できない。輸入の際には若干の工夫が加えられた日本仕様のものを送ってもらうか、通関手続時に税関の目の前で該当部分を削り落さなければならない。

なお、国際インターネット通販など小規模で個人的なものを除くと、一般に海外から商品を購入し通関するためには所轄官庁に対して複雑な許認可手続を行う必要があり、専門知識のない一般個人が直接通関手続を取るのは実際上極めて困難である。さらにはラブドールのような個人の趣向を反映したプライベートな貨物については、公的手続の煩雑さ以外に貨物の説明などで恥ずかしさも感じるため、なおさら個人輸入は困難であると言わざるを得ない。このため、海外製ラブドールの輸入代行を行う業者がいくつか存在する。

処分の問題 [編集]
ラブドールは骨格構造が意外と頑丈かつ複雑であり、細かく切断して分別廃棄することは困難である。処分の際、粗大ゴミとして扱われることになるが、最近では自宅前で収集する自治体も多く世間体を気にするあまり遠距離のゴミ置き場や空き地に不法投棄されることがある。

2008年8月、当時60歳の男性が113万円の高級ダッチワイフを静岡県伊豆市の山中に捨てた事件では、同年9月16日に廃棄物処理法違反の疑いで男性が書類送検されるという事態に発展した。この事件では捜査開始当初、大仁署がビニールにつつまれたダッチワイフの確認を怠って人間と思い込み、死体遺棄事件として報道発表を行い世間を賑わすという珍事も発生した。

このようなことから、メーカーでは不用ラブドールを無償で引き取り産業廃棄物として処分しているところもある。 また、ラブドールは高価であるため、仲介業者による中古品の有料斡旋もある。

ダッチワイフ使用者が増加したことに伴い、自分の死亡時にお棺の中に一緒に入れることを望む人もいるが、炉で焼く際に有害ガスが発生したり、異常高温になり炉に損傷を与えることもあり、また骨格金属の処分の問題もあるので、火葬場ではお棺に遺体とその衣服以外を一緒に入れることは禁じられている。

その他 [編集]
ラブドールは一般に成人女性の体型を模して造られるが、幼児体型の製品も存在する。また、極少数ではあるが、男性の体形を模した製品も存在する。
使用者のごく一部には、ラブドールを本物の女性のように扱うため、他人にもラブドールを人間として扱わせようとする者もいる。
自分の死後ダッチワイフの供養も望む人がいるが、もし供養するとすれば当然のことながら人間の供養とは違う人形供養の形となる。

ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

2009年03月11日

スルツェイ島

スルツェイ島(Surtsey)は、アイスランドにある無人島。1963年に海底火山の噴火により出現した。日本の西之島新島と並んで、海底火山の噴火から新島を形成した典型例として有名である。『スルツェイ』はアイスランド語で『スルトの島』を意味するため、本来『スルツェイ島』は重複表現である。

面積 - 2.8km?
標高 - 173m
アイスランドは大西洋中央海嶺上にあり、火山活動が活発である。

歴史
1963年 - 11月14日 アイスランド南西海域付近で操業中の漁船が硫黄臭に気付き、午前7時に噴煙を確認。
11月15日 - 海上に新島を確認。
12月6日 - フランスの週刊誌記者が上陸。この事件をきっかけに新島を「Surtsey」と命名。
12月16日 - 科学者による初上陸。
1964年(1月) - たびたびの噴火で標高173メートルを記録。
2月2日 - 第二火口が形成され、第一火口の活動が停止。
4月 - 4月までに新島の周囲は1.7キロに達する。
4月4日 - 地上に出現した第二火口から溶岩の湧出が始まる(29日まで)。
7月9日 - 溶岩の湧出が再開(翌年1965年4月まで)。
こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

1965年
5月 - アイスランド政府が聖域宣言。入島は許諾制となる。Surtsey Research Societyが設立される。
1967年
6月4日 - 火山活動が停止。
2008年
7月8日 - 第32回世界遺産委員会でアイスランド初の世界自然遺産として登録された。

従来、ウルトラブルカノ式と呼ばれていた噴火形式で、マグマたまりの中の水蒸気圧力が上昇することによって爆発するタイプであるが、高温のマグマが海水に触れることによって、大量の水蒸気を発生させ大爆発を起こすところから、マグマ水蒸気爆発と呼ばれる。さらに、スルツェイ島噴火が典型例であったところから、スルツェイ式と呼ばれるようになった。

神話との関わり
「スルト」とは、北欧神話に登場する、炎の剣を振りかざして南から神々に襲いくる巨人の名である。島の名付け親となった地質学者シーグルズル・ソゥラリンソンは、まさにアイスランドの南の海上で炎を吹き上げる様子からこの名を提案したが、このことが、神話を現在に伝える『詩のエッダ』や『散文のエッダ』がその内容に火山活動からの影響を受けていることを一般に知らしめた。

1965年6月にはスルツェイ島の浜辺に植物が生えているのが発見され、今日では緑に覆われて、アザラシや海鳥も集まる自然の楽園となっている。スルツェイ島出現以前にも新しく生まれた火山島でみられてきたこうした出来事が、『エッダ』で語られている、スルトの火焔によって焼かれて海に沈んだ大地が再び浮かび上がり、そこでは種を蒔かずとも穀物が実る、という描写として記録されたと考えることもできる

2009年02月23日

ウズベク語(ウズベクご)

ウズベク語(ウズベクご)とは、アルタイ諸語であるテュルク諸語に属し、テュルク諸語の中では南東語群に分類される言語。ウズベキスタンの公用語。ウズベキスタンでは1992年以降ラテン文字で表記されるようになったが、それ以前はキリル文字がつかわれていた。中国のウズベク族は改良アラビア文字で表記する。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

現在のウズベキスタンに相当するトランスオクシアナ地方は、9世紀以降断続的に、北方の草原地帯からテュルク系遊牧勢力の流入を受け、イラン系言語が優勢であった住民の言語にも、徐々にテュルク系言語が浸透していった。

ティムール朝支配下の15世紀には、 ペルシア語の影響を強く受けたテュルク系文章語であるチャガタイ語が成立し、宮廷や都市住民を中心に用いられた。バーブルやナヴァーイーに代表される多くの文人により、チャガタイ語を使った洗練された作品が著された。

ロシア帝国による中央アジア征服後の19世紀末から20世紀初頭には、チャガタイ語の伝統を元に、口語の要素を加えた新しい文章語を用いる知識人が現れた。また、トルキスタン総督府が出版した『トルキスタン地方新聞』でも、現地の口語に基づいた文章語が「サルト語」と称して使われ、現代ウズベク語の基礎となる文化環境が整えられた。

帝政期のロシア領トルキスタンでは、オアシス定住民に対しては「サルト人」、遊牧民に対しては遊牧ウズベクに由来する「ウズベク人」といった民族名称が用いられてきた。こうした歴史的に形成された民族概念に対して、ソビエト政権は政策的な民族境界画定工作を実施し、1924年にはトルキスタン南部のテュルク系諸言語の話者は全て「ウズベク人」として識別された。新しく作られた「ウズベク人」の標準文章語には、サマルカンドのサルト語(現在のカルルク方言)が選定された。

話者
ウズベク語の話者の大半は、ウズベキスタンに居住している。また、タジキスタンに120万人、キルギスに55万人、カザフスタンに33万人、トルクメニスタンに31万人が居住し、アフガニスタン北部、中国の新疆ウイグル自治区にもウズベク語話者が存在する。

系統
ウズベク語は、テュルク諸語南東語群(チャガタイ語群)に属し、現代ウイグル語に近縁であると考えられている。

他のテュルク諸語で広く見られる母音調和の特徴を消失している他、語彙にアラビア語、ペルシア語、ロシア語を多く含むなどの特徴を有している。

方言
現代ウズベク語は、カルルク方言、キプチャク方言、オグズ方言の3つの方言に大別される。ウズベク語は、その成立経緯から、起源を異にする様々なテュルク系諸語の話者を含んでおり、「ウズベク語」という名称はその総称を示すものと考えられている。

カルルク方言 :フェルガナ、サマルカンドの定住民の言語であり、現代の標準文章語の元になった方言である。
キプチャク方言:遊牧ウズベクの子孫からなるタシケント、サマルカンド、ブハラの住民の言語であり、母音調和の特徴を保持している。
オグズ方言  :ホラズム地方で話され、トルクメン語との類縁性を持つ。

表記
ウズベク語の正書法は、アラビア文字、ラテン文字、キリル文字としばしば変更され、現在では1992年に制定されたラテン文字の新正書法が使われている。

ウズベキスタン政府は、公共部門の全文書を新正書法に切り替え、2005年までに移行を完了するとしていたが、現在でもキリル文字による旧正書法は広く使われている。

2009年02月07日

足利 尊氏(あしかが たかうじ)

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

本姓は源氏。河内源氏の名門足利氏嫡流足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。

後醍醐天皇専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやったが、後醍醐天皇勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は吉野へ遷り南朝を創始した。

幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。

(後醍醐)天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。
尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。『難太平記』は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。『難太平記』によれば、尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。『古典太平記』は、これにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。

元弘3年 / 正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、同年4月29日、所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、同年5月7日に六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時、高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。

高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。

建武の新政から南北朝動乱
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。

後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守大将軍[1]に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334年)、尊氏は、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。

建武2年(1335年)に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、同年8月2日、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、同月19日には鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。

直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に会った尊氏は同年2月、京都を放棄して赤松円心の進言を容れて九州に下った。

九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像の宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月、京都を再び制圧した。

京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月に京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。

観応の擾乱から晩年まで

尊氏の墓(等持院)延元3年 / 暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ(在職 1338年 - 1358年)、ここに、後に室町幕府と呼ばれることになる武家政権が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。 南朝との戦いでは新田義貞の弟・脇屋義助を撃破し越前から駆逐することに成功。楠木正成の遺児・楠木正行も四条畷で討ち取り、吉野を焼き討ちにするなど戦果をあげた。

新政権において、尊氏は政務を直義に任せ、自らは武士の棟梁として君臨した。佐藤進一は「室町幕府論」(『岩波講座日本歴史7』、岩波書店、1963)において、この状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した。二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こしていき、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていたが、師直派に擁立されてしまう。正平4年/貞和5年(1349年)、襲撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなったが、直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説がある。

尊氏は直義に代わって政務を担当させるため嫡男義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年 / 観応元年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝方に付き、桃井直常、畠山国清ら一部の譜代の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、尊氏も直義に摂津国打出浜(兵庫県西宮市)で敗れた。尊氏は高兄弟の出家を条件に直義と和睦し、正平6年 / 観応2年(1351年)に和議が成立した。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺されている。

直義は義詮の補佐として政務に復帰した。尊氏・義詮は佐々木道誉や赤松則祐の謀反を名目として近江・播磨へ出陣し、実際には直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行なった。この動きに対して直義は北陸方面へ脱出して鎌倉へ逃げた。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。平行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、正平7年 / 観応3年(1352年)2月に急死した。『太平記』は尊氏による毒殺の疑いを記している。

その直後に宗良親王、新田義興・義宗、北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ戻った。その後足利直冬が京都へ侵攻するが、結局直冬は九州へ去る。正平9年 / 文和3年(1354年)にも京都を南朝に一時奪われるが、翌年奪還した。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが、正平13年 / 延文3年4月30日(1358年)、背中に出来た癰(よう、腫物)のため、京都二条万里小路邸にて死去した。享年54。
『梅松論』などによると、尊氏は後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やんで一時は出家を宣言したり、合戦で苦戦した際には切腹すると言い出すなどの記述があり、佐藤進一は尊氏を躁鬱病ではないかと推測している。個人的に親交のあった夢窓疎石は、尊氏の徳を評価した文章を残している。尊氏は傘下の武将たちへの恩賞を惜しむことがなく、そのことが苦境に立たされても常に武将たちの支持が得られた理由だとする見解もある。

後世の評価
尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まる。水戸学は朱子学名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している(足利三代木像梟首事件)。

明治時代になると、明治政府の立場から天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史観が構築されていったが、それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の中興・明治維新が最も重要な改革に位置づけられた。明治中期までは近代的歴史学による実証的研究から後醍醐天皇・南朝の正統性はそれほど強調されていなかったが、明治40年代に入り、南北朝正閏論争を経て、後醍醐天皇・南朝の正統性が強く主張されていき、それに伴って尊氏に対する否定的な評価が確定することとなった。戦前の国定教科書には「天皇に弓を引いた逆臣」と書かれており、斎藤内閣の中島久万吉商工大臣が尊氏を礼賛した文章を書いたために辞任する事件も起こった。

戦後になると、国家主義的な歴史観が大きく後退し実証主義的な歴史研究が進展したことに伴い、尊氏の再評価が進められた。佐藤進一による主従制的支配者としての尊氏の評価はその一例であり、これは武家政権に関する研究が大きく進展する契機となった。現代の歴史研究において、尊氏を逆賊とする見解は存在せず、むしろ明治期に尊氏が逆賊とされるようになるまでの経過が歴史研究の一テーマになることもある。文化面においても、吉川英治が昭和30年代に書いた『私本太平記』は尊氏を主人公としているが読者に広く受け入れられており、尊氏への評価が戦前のものから大きく変化していることがわかる。

海音寺潮五郎や井沢元彦は後醍醐天皇に止めを刺し損ねた点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている」と厳しい評価を下している。

尊氏の肖像
京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は尊氏の肖像として一般に知られていたが、2代将軍義詮の花押が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利氏の家紋ではないこと(高氏の家紋が輪違)などの理由から、足利家執事高師直あるいはその子の高師詮の肖像とする説が有力視されており、現在では尊氏説は否定されている。

鎌倉時代に藤原隆信が描いたとされる国宝神護寺三像のうち伝平重盛像は、平重盛を描いたものと考えられてきたが、1990年代半ばに美術史家の米倉迪夫や黒田日出男らによって尊氏像であるとの説が提示され、広い支持を集めている。等持院所蔵の尊氏木像との比較や、冠をとめる笄(こうがい)が室町初期に流行した形状であることなどが根拠として挙げられている。広島県尾道市の浄土寺にも尊氏を描いたとされる肖像画が所蔵されている。

その他、江戸時代に描かれた錦絵に歌川国芳の「太平記兵庫合戦」(兵庫・福海寺で尊氏を探す、白藤彦七郎)、歌川芳虎の「太平記合戦図」(尊氏、兵庫・福海寺に避難する図)、橋本周延の「足利尊氏兵庫合戦図」(尊氏、兵庫・福海寺に避難する図)等がある。

尊氏の木像は、足利氏の菩提寺である京都の等持院、大分県国東市の安国寺 (国東市)等に所蔵されている。また、現代になって作られた銅像が足利市鑁阿寺参道と京都府綾部市安国寺町に設置されている。

系譜
父:足利貞氏
母:上杉清子
弟:足利直義
足利尊氏
正室:赤橋登子
子:足利義詮
子:娘
子:聖王
子:足利基氏
子:頼子(崇光天皇皇后)
子:了清
子:娘
側室:加古六郎基氏(法名:雲光院覚遍、足利一族)の女(『尊卑分脈』・『系図纂要』より)
子:竹若丸
側室(越前局?)
子:足利直冬
側室
子:英仲法俊

2009年01月22日

ルワンダ国際戦犯法廷

ルワンダ国際戦犯法廷(るわんだこくさいせんぱんほうてい、International Criminal Tribunal for Rwanda)は、国際連合の安全保障理事会決議955によって1994年11月に設置された国際刑事裁判所。正式には、「ルワンダ領域内で行われた集団殺害及びその他の国際人道法の重大な違反について責任を有する者ならびに隣接諸国の領域で行われた集団殺害及びその他のこのような違反に責任を有するルワンダ市民の訴追のための国際刑事裁判所」(the International Criminal Tribunal for the Prosecution of Persons Responsible for Genocide and Other Serious Violations of International Humanitarian Law Committed in the Territory of Rwanda and Rwandan citizens responsible for genocide and other such violations committed in the territory of neighbouring States, between 1 January 1994 and 31 December 1994)という。英語での略称は、ICTR。ルワンダ国際刑事裁判所ともいわれる。
セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

人道に対する罪(じんどうにたいするつみ、英: crime against humanity、仏: crime contre l'humanité)は、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」として第二次世界大戦後のBC級戦犯(横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷)とニュルンベルク裁判に初めて適用された犯罪概念。現在ではジェノサイド、戦争犯罪とともに「国際法上の犯罪」(crimes de droit des gens) を構成する。戦時、平時に拘わらない。

アルメニア人虐殺問題に対する1915年の英仏露共同宣言中でその概念が初めて登場した。また、第一次世界大戦の戦勝国(日本を含む)は、ドイツを人道の罪でも裁こうとしたが、ドイツ皇帝の逃亡により実現しなかった。そのため、第二次世界大戦中に慣習国際法上確立していたとはいえなかった。 第二次世界大戦後、連合国は当時のジュネーヴ条約等では戦争犯罪人と同じ国籍を有する被害者を保護できないと考え、人道に対する罪を個人の戦争犯罪として定義した。(法の不遡及の原則に反するとして批判を受ける。)[1]

1993年、国連安全保障理事会が設置した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷では「国際又は非国際武力紛争において犯された人道に対する罪」として規定し、「一般住民に対して行われた、殺人、殲滅、奴隷化、強制移送、拷問、強姦、政治的・宗教的理由による迫害などが人道に対する罪に該当する」としている。

また、国際刑事裁判では1994年のルワンダ国際戦犯法廷においても人道に対する罪を処罰対象にしている。

1998年にはローマ会議において、国際刑事裁判所規程(ローマ規程)が採択され、署名期限までに139カ国により署名が行われた。その後、批准国数の要件が満たされ、2002年7月1日、オランダのハーグにて常設の国際刑事裁判所(ICC)が動き出すこととなった。そして、国際刑事裁判所規程第7条[2]に基づき、現在、人道に対する罪(規程では「人道に対する犯罪」)はこの裁判所の管轄事項となっている。

ジェノサイド条約の集団殺害罪とは構成要件を異にする。すなわち客体は「一般人たる文民」であり、また意図に関する要件(集団の全部または一部を破壊する意図)はない。(ジェノサイドの項目も参照のこと。)

人道に対する罪に関する主な事件・出来事
東欧におけるポグロム
アルメニア人虐殺問題
ナチスのT4作戦
1933年 - 1945年 ドイツ(ナチス)によるユダヤ人、ポーランド人その他に対する行為(大量殺害など)。
1931年 - 1945年 日本軍による同国籍の住民や捕獲された者に対する行為(殺害など)[3]。
1942年 大日本帝国による花岡事件。
1941年 - 1945年 アメリカ合衆国での日系人に対する行為(強制収容)。
1932年 - 1933年 ソ連によるウクライナ人のホロドモール。
ソ連による沿海州の高麗人・ドイツ東部(東プロイセン、シュレジエン等の旧ドイツ領。東ドイツではない)のドイツ人、チェチェン人などの西トルキスタン諸国への強制移住。
中華人民共和国における少数民族の労働改造所への強制収容。
中華人民共和国における少数民族の漢族との通婚の強制。
1948年 - 1950年 イスラエルによるパレスチナ住民(アラブ人)に対する行為。
1950年 - 現在 中華人民共和国によるチベット他少数民族に対する行為。
1962年 - 1970年 アメリカによるベトナムでの化学兵器の使用。
1966年 南アフリカにおけるアパルトヘイト政策によるネグロイドに対する行為。
1974年 ルーマニア政府による敵対住民に対する迫害。
1975年 - 1979年 カンボジアにおけるポル・ポトによる住民に対する行為。
1988年 イラクにおけるサッダーム・フセインによるクルド人に対する行為。
1991年 - 1999年 旧ユーゴスラビアにおける敵対住民に対する行為。
1994年 ルワンダにおけるフツ族によるツチ族に対する行為。
1996年 - 2001年 アフガニスタンにおけるターリバーンによる敵対住民に対する行為。
2006年12月30日 サッダーム・フセインが、この罪により、国家元首の経験者としては初めて死刑に処せられた。

2009年01月15日

創薬(そうやく、drug discovery)[

おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

創薬(そうやく、drug discovery)[1]とは医学、生物工学および薬学において薬剤を発見したり設計したりするプロセスのことである。

以前は、大半の薬剤が伝統治療薬(生薬)の有効性成分の同定や宝探しのようにして発見されたものであった。今日における創薬アプローチは疾病や感作が分子生物学や生理学の見地で解明された制御機序や、その見地において見出された創薬対象の特性を理解することで薬剤を発見する手法である。

創薬のプロセスは、候補化合物の同定、合成、特徴付け、薬効のスクリーニングおよびアッセイの順に進展する。これらの試験で有用性を有する化合物を見出すと、前臨床試験の医薬品開発プロセスに進む。テクノロジーや生物システムの解明が進んでいるのにもかかわらず、創薬はまだ長期間を要す上に新薬発見の成功率は低い。

創薬に予想もしない恩恵をもたらす可能性を秘めた暗号であるヒトゲノム情報は治療標的のボトルネックを計算機上で排除すると信じられている

「標的」の定義づけ自体は製薬企業内で行われた議論によって形成される。しかしながら、 新規と既存との標的の区分は標的がどのようなものであるかを完全に把握しなくても判別されている。このようにして判別された区分は典型的には製薬企業が創薬や開発に従事している低分子治療薬の区分になっている。

「既存標的」は健常な状態の生理学的な標的機能も、ヒトの病理学的な標的機能も科学的な理解が良くなされており、長期にわたる発表履歴に裏打ちされている。既存であるということは、薬剤の作用機序が標的の完全に把握れた詳細を通じて作用が考察されることをほのめかすわけではない。むしろ、「既存である」ということは直接的にはそれぞれの機能に関する情報について標的を取り巻く情報の量の多い少ないに関連している。

多くのこの種の情報は利用可能であるが、それに対して(通常は)各標的に対して臨床的な開発を施すための資金には限りがある。この種の機能情報を集約するプロセスは、製薬業界用語で「ターゲットバリデーション」(w:en:target validation)と呼ばれる。製薬企業が内部的に所有しているものも含めて、既存の標的は過去に医薬品開発の活動の積み重ねに経験付けられている。たとえばこのような経験の積み重ねは標的に対して低分子治療薬の化学的開発実現性に関する情報を提供する。そして他社へのライセンス供与の機会を提供し、低分子治療薬候補を考慮する際にその経験が選択の幅を提供する。

一般には、「新規標的」は創薬活動の主題としてなった標的のうち「既存標的」以外のものすべてである。典型的には新規標的は、新規に発見された蛋白質であったり、基礎研究により新たに機能が判明した蛋白質などが含まれる。創薬において今日選択されるる主な標的は蛋白質である。それらの蛋白質クラスの2つの主流は次のものである:Gタンパク質共役受容体(GPCR)とプロテインキナーゼである。

スクリーニングとデザイン
個々の疾病毎に選択された標的に対する新薬発見のプロセスはハイスループットスクリーニング(w:en:high-throughput screeningHTS)により進展するが、それは膨大な化学物質ライブラリーに対して試験を実施し、その過程で標的に変更を促す働きも有している。例えば、標的が新規GPCRであれば試験化合物は受容体を阻害あるいは刺激する性質[3]でスクリーニングされる。プロテインキナーゼの場合、化合物はキナーゼの酵素阻害作用で試験される。

HTSのもう一つの重要な機能に選択された標的に対して選択性を示すかどうかを見るという点がある。理想的には発見された化合物は選択された標的ただ一つに影響し関連した他の標的には影響しないというものである。最終的にはスクリーニングの実施により、選択された標的対するヒット化合物は関連する他の標的に対する影響を試験される。このプロセスをクロススクリーニング(Cross-screening)と呼ぶ。クロススクリーニングは重要である。なぜならば関連性のない多くの標的に対してヒットする化合物は的外れの毒性を臨床段階で化合物が示すことを引き起こすからである。

早期のスクリーニングで完璧な候補化合物が出現することはほとんど起こりそうもないことである。たいていは、ある程度の薬理活性をもったいくつかの化合物が発見される。そしてそれらが共通の化学構造を持つ場合は、単一かあるいは複数のファーマコフォア(w:en:pharmacophore)が見出されることがある。この時点で、医薬品化学者は構造活性相関( w:en:structure-activity relationshipSAR)を試みて幾つかの性質を改善してリード化合物を仕立てるのである。その改善とは次のようなものである:

選択された標的に対する活性を増大する。
無関係の標的に対する活性の低減させる。
分子特性が薬に適した性質やADMEの改良を行う。
このプロセスは幾つかの試行錯誤的なスクリーニングの実施が必要となることがある。その過程において、望ましくは、新しい分子の性質が改良され、In vitro試験や In vivo試験を実施する上で採用された病理モデルの活性の点で好ましい化合物になっていることである。

概してHTSは、一般には新規な創薬の為の手法であるが、その目的だけに使用されるわけではない。HTSが幾つかの望ましい特性を持つ分子から出発することもある。その場合の分子は天然物(w:en:natural product)から抽出されたり、改良された上市されている薬(「ゾロ新」、"me too" drugと呼ばれる)からであったりする。HTS以外の方法としてはパーチャルスクリーニング(w:en:virtual high throughput screening)と呼ばれる手法があり、コンピューターが機械的に発生させた分子モデル(バーチャルライブラリー)を使い創薬標的にバーチャルライブラリーをドッキングスタディを施すことでスクリーニングとすることがしばしば行われる。

他の重要な手法としては医薬品設計(w:en:drug design)による創薬があげられる。標的の生物学的、物理的特性に関して研究し、一連の化合物が活性部位(w:en:active site)に適合するか否かを予測する。そして新規のファーマコフォアの存在は医薬品設計の試みを迅速に達成しうる要素である。

能力や選択性や薬剤に適した特性の面で十分標的を満足しうる一連のリード化合物が見つかると、一つないしは二つの化合物が医薬品開発の段階に供せられる。一連のなかでの最も適した化合物は一般にはリード化合物と呼ばれる。そしてリード化合物以外の設計された化合物は「バックアップ(化合物)」になる。